日本でスピードスケートと言えば、長い間、男子500メートルがメイン種目だった。五輪では初メダルも、最初の「金」も、スピードでの通算最多メダルも、このスプリント種目だ。そんな栄光の歴史の陰には、多くの無念の涙もあった。数々のドラマを演じてきた伝統種目で、21歳の新鋭、森重航が銅メダルを獲得。日本に3大会ぶりのメダルをもたらした。
▽屋外リンクの悲運
雪が舞い、風が吹きすさぶことがある屋外リンク時代には、今の屋内リンクでは想像できないアクシデントが起こった。日本の男子500メートルには悲運の前史がある。
日本のスピード初のメダル、それも金メダルに最も近いと言われたのが鈴木恵一だった。1960年代に当時の世界選手権でこの種目を何度も制覇。国内外で無敵を誇ったが、それでも3度出場した五輪ではメダルに無縁だった。
2度目の五輪、68年グルノーブル大会では優勝候補筆頭だった。直前には世界記録も樹立していた。しかし試合前に屋外リンクの小石を踏んで、スケートの刃が欠けた。エッジがきかないスケートでは力を発揮できず、8位に敗れた。
鈴木に続くスター選手が80年代の黒岩彰だ。83年の世界スプリント選手権で優勝し、84年サラエボ大会は大きな期待を背負った。雪と風の悪天候でスタート時間が5時間も遅れ、重圧が高まったのだろう。しかもスタートは、不利とされていたアウトコース。黒岩のレースに本来の爆発力や切れはなく、10位に沈んだ。
五輪前から多くの報道陣が黒岩に群がり、「メダルの自信は?」などと質問攻めにして選手の精神面を追い込んだ、ともいわれた。今でいうメディアスクラムが、スポーツ取材の現場でも問題視されたケースだった。
▽6大会連続メダルの快進撃
待望の第1号メダルは、黒岩惨敗の衝撃がリンクを覆う中で誕生した。黒岩がうなだれて引き上げた直後のレースで、伏兵の北沢欣浩が2位に入り銀メダルを獲得。現地にいた日本メディアの中には黒岩を追いかけて、北沢のレースを見落とした記者もいた、とのエピソードがある。スケート関係者の間に戸惑いもあった日本の記念すべき初メダルだった。
ここから日本人スプリンターの快進撃が始まった。続く88年カルガリー大会で黒岩が雪辱を果たす銅メダル。98年長野大会で清水宏保が悲願の金メダルに輝き、初めて頂点に立った。2002年ソルトレークシティー大会の清水の銀メダルまで、日本は五輪6大会連続でメダルを獲得。10年バンクーバー大会でも銀、銅を積み上げ、この種目での通算メダルは9個を数えていた。
▽実業団衰退、ナショナルチームで挽回
500メートルの栄光を支えたのが企業だった。全盛期は実業団が有望選手の獲得合戦を演じ、入社後は各チームが競い合って五輪に送り出した。
ところが企業スポーツが衰退。かつての名門が次々と廃部になり、今でもトップ選手を擁しているのは旧三協精機の流れを継ぐ日本電産サンキョーや富士急など限られたチームだけだ。同時に日本男子もメダルから遠ざかった。
実業団の弱体化により、選手を支えたのが日本スケート連盟によるナショナルチーム(NT)結成だった。NTは14年ソチ大会で男女ともメダルゼロに終わった不振挽回を狙い、強豪オランダから指導陣を招請。医科学トレーニングも取り入れ、少数精鋭のナショナル選手を集中強化した。前回の平昌大会ではまず女子が成果を出して金3、銀2、銅1の大活躍。同五輪でもメダルなしに終わった男子復活が北京での目標だった。
▽新星が窮地救う
体格、体力で欧米勢に劣る日本男子にとっては、瞬発力と技術で対抗できる種目が500メートルだった。清水のロケットスタートに象徴される前半のスピードと、巧みなコーナーワークが日本短距離陣の持ち味だった。
しかし高地リンクでは33秒台も出る超高速時代になって、瞬発力と技術だけでは世界に太刀打ちできない。今の500メートルは、スタートからゴールまで加速し続けていくパワーも求められるようになった。
森重は昨季終盤に好記録を出し、今季、NTに抜擢された新星だ。フライングでやり直しがあったスタートでもひるまず、持ち味であるコーナーワークからの加速で伸びた。最後のカーブは難しい内側を回るアウトスタートだったが、その難所も切り抜けて34秒49でゴールした。
エースの新浜立也が、スタート直後のつまずきで出遅れて下位に沈み、29歳の村上右磨も8位にとどまった。日本の窮地を救ったのは、若い大学生だった。初の大舞台でも力を発揮した森重の勝負強さは、日本の「お家芸復活」を告げるのろしになった。(共同通信・荻田則夫)