日本ではもはや、その名を知る人は少ないだろう。スウェーデン人のヤン・ボークレブというジャンプ選手だ。冬季五輪ではちょうど30年前の1992年アルベールビル大会で本格的にお目見えした「V字ジャンプ」。この革命的な技術転換をもたらした「元祖」だ。
▽V字は偶然の産物
それまでの飛び方と言えば、72年札幌大会で冬季五輪日本初の金メダリストとなった笠谷幸生の姿を思い浮かべる人が多いだろう。80年代までは空中でスキー板が平行にそろわなければ、飛型点を大きく減点されていた。
保育士だったボークレブは運動神経抜群だが、スキーをそろえづらかったと思わせるガニ股。てんかんなどのハンディとも闘いながらジャンプ生活を送っていた。幼稚園の経営者になっていた97年夏、筆者の先輩記者の取材にV字誕生のきっかけを語っている。85年の夏、失敗ジャンプで「体が空中で前に出た。慌ててスキーを開いたら、遠くに飛んでいた」というから、まさに偶然の産物だった。
飛距離が伸びるのは、スキー板が体の外側に出ることで風を受ける面積が広がり、揚力が増すから。ただ、88年カルガリー冬季五輪は90メートル級(現ラージヒル)18位、70メートル級(現ノーマルヒル)28位。まだ飛型点の大幅減点を補えるだけの完成度はなかったようだ。
▽異端視から一変、転向者続出
飛型点という「美しさ」も問われるものの、ジャンプの本質は、どれだけ遠くに飛ぶか。このスタイルにこだわり続けて五輪直後に突如開眼し、ワールドカップ(W杯)で2位に2度食い込んだ。次のシーズンに22歳でW杯初勝利を挙げ、通算5勝で総合王者に。スウェーデンのジャンプ選手がW杯で勝ったのも総合優勝したのも、初めてという快挙だった。
もっとも、当時の日本の記事にも「独特」に加えて「奇妙」「異様」といった形容が頻繁に出てくる。当時呼ばれた「ボークレブ・スタイル」は、勝っても異端視されていた。
状況が一変したのは、この元祖が足首骨折で欠場した90〜91年シーズンのW杯だった。アンドレ・キーゼベッター(ドイツ)という無名の若手が、現在の選手のようにスキーの先端を大きく開き、体を深く前傾させる進化形のフォームで序盤戦に2勝した。「勝利のカギはV字」という認識が急速に広まり、各国で転向者が続出。これを受け、国際スキー連盟(FIS)は飛型点の減点を少なくするルール改正に踏み切った。
アルベールビル冬季五輪では、日本ジャンプ陣も原田雅彦や葛西紀明らV字ジャンパーで臨んだ団体で4位、個人も原田がラージヒル4位に入賞した。ジャンプが苦手だった複合の荻原健司は、何と開幕2週間前に転向したV字スタイルがぴたりとはまり、一躍エースに成長して団体の金メダルに貢献。以降、世界に君臨した。
▽五輪王者が表した敬意
当のボークレブが輝いたのは、1シーズンだけだった。W杯は89年12月の3位を最後に表彰台に立てず、93年に引退した。アルベールビルでの五輪はノーマルヒル47位、団体9位で終わった。
現場で見ていて、V字ジャンプを洗練させた後発組に比べて板の開きが左右非対称で、きれいなV字になっていなかった覚えがある。それでも、ノーマルヒルで優勝した転向組のエルンスト・ベットリー(オーストリア)は「このメダルは、このスタイルをつくったボークレブのおかげだ」と、同い年の先駆者に敬意を表した。
陸上走り高跳びの背面跳びは、今も世界的には「フォスベリー・フロップ(どさっと落ちること、といった意味)」と称される。それはディック・フォスベリー(米国)がこの跳び方で68年メキシコ五輪の金メダルを獲得したからだろう。一方のV字ジャンプは、もはや「ボークレブ・スタイル」とは言わない。五輪での活躍の有無が、歴史に名を残せるかどうかに直結するのは致し方ない。
でもだからこそ、転換点となった五輪から30年という節目の今大会で、パイオニアの名前と足跡を改めて記しておきたいのだ。(共同通信・名取裕樹)